『ルパン三世 ルパンVS複製人間』といえば、1978年(もう50年も前!?)に公開された言わずと知れた名作映画である。ルパン三世の劇場版第1作であり、「ルパンVS複製人間」の部分はビデオ化の際に改めて付けられたというトリビアさえ既に人口に膾炙しているほどに有名な作品だ。
魔術的な、あるいは超科学的な技を繰り出し続ける怪人・マモーと、それを打ち倒すべく活躍するルパンとの構図なので、この物語が「"神的存在"と"人間の極致"との勝負」を描いていることには相違ない。しかし面白いのは、実のところマモーの方が人間側であるというところだ。
怪人・マモー
高校生の時、データベース4500という単語帳で"mammal"という単語を覚えた。発音は「mǽməl(カタカナに起こすなら
マモー)」、意味は「
哺乳類」。これを知った私は、ああ!あのルパンの映画に出てくるマモーって、哺乳類という意味だったのか!と衝撃を受けた記憶がある。
映画の中のマモーは徹頭徹尾、非・人間的な生物として描かれている。肌の色は青いし、身長は1メートルくらいしかない。一応目鼻立ちはあり、腕も脚もあるにはあるが、そのパーツが揃っているのに人間味がほとんどない。体つきは子供のようでありながら、その顔に深く刻まれた皺はまさしく老人のものそのもので、自称するところでは1万年以上も生きているという。
その実、彼は遥か古代にクローン技術を完成させ、自らを複製することでそれだけの年月を生きながらえている。
しかしその技術は完全ではなく、生み出されるクローンはオリジナルの100%のコピーではなく、複製の次第に劣化していくものだった。つまりこの技術だけでは不老不死は果たせなかった。
次に彼は叡智を集結させることを選ぶ。既に手に入れた長命を生かし、歴史上の偉人となる人物と接することで、人間が考え出せる叡智を収集していく。
現代において彼は大財閥ハワード・ロックウッドとして存在しており、太平洋上の孤島を、遺跡発掘現場と偽装したうえで超現実の世界に改造し住処にしている。
これは作品内で知ることのできるマモーの履歴を並べただけだが、これだけで彼がとてつもなく人間的な存在だとわかってしまうだろう。
不死を求め、それを叶えるためにあらゆる知識を蓄えることで死を回避しようとしていた。
人間のこれまでの知識すべてを一身に引き受けているということは、副次的に、彼は人間が到達できる極北にいる。
そして「マモー」この名前に生きとし生ける哺乳生物と、そしてそれは摩耗し永遠に続くものではないのだとたった3文字に押し込まれていて、いきさつは知らないがなんてアイロニカルな名前を名乗りはじめたものだろうと思ってしまう。
存在と自我
マモーがハワード・ロックウッドの仮面のもとに作り出した孤島には、絶滅した動物種や歴史上の偉人、芸術品が保管してある。
絵画であるはずの『階段の家』や『街の神秘と憂鬱』、『記憶の固執』が現実と地続きに存在する不気味な空間だ。
つまるところ巨大な美術館のような島なのだが、ここのコレクションには
人間も含まれている。
マレンゴに乗り闊歩するナポレオンや、物憂げに歩くヒトラーなど、マモーの技術によって生み出された歴史上の人物のクローンが存在している。
この映画を見たもの全員が抱く疑問がある。
『彼らを本物と呼んでいいのか?』ということだ。
「自我」というものを物語にしようとしたとき、最も身近なのは「自分がもし違う家に生まれていたとしたら、それは今の自分と同じ思考、同じ能力、同じ意志を持つのだろうか?」という命題だ。
これの真偽についてはおいておくとして、マモーはこの命題を「遺伝子構造が一致する
ならば、それは確実に本人である」と読み違えた(あるいはそう仮定した)のがおおもとの誤謬だったのではないだろうか。
『彼の相手をしているのは古代中国の哲人だよ』
『と、思い込んでいるパラノイアか』
『彼は本物だ!』
『それじゃ本物のパァ?』
たったこれだけの掛け合いだが、ルパンは的確にその誤謬を指摘している。
マモーにとっては、遺伝子構造が一致しているのだから彼らは本物である。
しかしルパンにとっては、ここにいるナポレオンは単に「自分はナポレオンだと信じ込まされている人」に過ぎない。
マモーが彼らと対話をしたり、彼らの言葉を引用したりというシーンは一切ない。ナポレオンもヒトラーもただこの島に
存在しているというだけで、半ば飼い殺しとも言える憂き目にあっている。
「叡智を集結させる」ということが目的であるなら、彼らは存在しているだけでなんの補助にもなっておらず、これは相当変だ。
自らの技術で教科書に載っている通りの人物を再現できたと実感すること自体が目的であり、つまりマモーが本当に願っていたのは、叡智の保存や芸術品のコレクションなどではなく、
遺伝子への絶対的信頼だったのではないかと思われる。
遺伝子が摩耗しつつある自分と、一方で完璧な遺伝子のままで存在し続ける人間たちというものがマモーにとって必要だったのかもしれない。
神と人間
昔、ガガーリンが人類史上初の宇宙旅行を果たし帰還した際、時のローマ教皇ヨハネ23世が「宇宙から神は見えただろうか?」と訊いたというアネクドートがある。
神学と宇宙学はまったく異なる分野だが、突き詰めるとどちらも人間の知性の限界点を探る学問に他ならない。
神学は「神とは何か、己とは何か」を考える。宇宙学は「地球の外には何があるか」を考える。
知性とは限界を広げるツールである。広がった領域の内部にあるものは、既に自分のものだ。
マモーがやっていたことも、本質的にはこれと同じことだ。
自らを複製し叡智を蓄えることで、人間が到達し得る限界点を広げ、その先にあるものに手を伸ばそうとしていた。
そしてその先にルパンがいた。
人間は、手に持っている松明の明かりの届かない部分には恐怖を覚えるものである。
マモーはこれほどまでに人間を超越しておきながらなお、本質的には人間を超えることができなかった。
『なんということだ!ルパンは夢を見ない!空間、虚無!それは白痴の、あるいは神の意識に他ならない!』
マモーは夢を見ていたのである。
自らが不老不死を達成するその日を。
『永遠の眠りに就け!ルパン!』
しかしどんな学問を極めた者であっても、明かりの届かぬところ、つまり
枠の外への恐怖を否定することはできない。
圧倒的なまでの知性を持つ自分でも理解できない存在を前に、すぐさま排除しようとする。こんなに人間らしい振る舞いが他にあるだろうか。
『感謝しな……マモー。
やっと死ねたんだ。』
決着がついた後のルパンのセリフである。
最後に『神の国へ行く』つまり夢想の世界への旅立ちを決意し宇宙空間で破裂したマモーは、断末魔さえあげずに凍り付き、燃え尽きた。
しかし、すべてを知りたいっていう欲望は人間だれしもあるものだけど、こうなる前にルパンを知ることができた我々は幸運だよな!