ダイアリニッキ・レガシー版
青山もみじの表に出せない文章が載っています。
「青い葉っぱとメープルシロップ」は基本的に全年齢向けのサイトですが、ここだけは全年齢向けでない可能性があるので、よいこの皆さんは読まないでください。
しかしまともじゃない文章の方が充実してるってどうなんだろうな。
好きなキャラクター
せっかく思いっきり懐古趣味のページを作ったので、なにか限定コンテンツを……と思ったのだが、私は絵が描けないし曲も作れないし、動画も編集できないし小説も執筆してない、ほんでーゲイでもない。
つまるところ、何もできない。
となれば、自分のことを語ってグラム何十円かで切り売りしていくほかない。
いわずとも知れたことだと思うが、私はド陰キャキモオタクである。
なんせ人生で初めての二次元妄想は6歳のときという筋金の入りっぷりなのだ。早熟だね随分。
6歳といえば幼稚園の年長さんだが、その時にちょうど放送していたニチアサキッズアニメがおジャ魔女どれみ(1期)だったのである。
しかし、私には妹がいるので、妹が見ているからという理由で私もなんとなく同じ部屋で見ていたにすぎない。
妹が内容を理解して見ていたのかは定かではない。私でさえ、その当時にしっかりと内容を理解していたのかは定かではない。
ただひとつ、完全に理解できていたのはおんぷちゃんはかわいいということだけだ。
そんなわけで、私の初恋の相手は瀬川おんぷである。
おんぷちゃんといえば、2期(しゃーぷ)以降は完全にMAHO堂の一員としてふるまっていたが、実は1期では敵役として登場したことは今日ではあまり語られない。
敵だった時のおんぷちゃんは小悪魔を通り越して悪魔と思えるほど傍若無人で天上天下唯我独尊だった。
その場その場で適当に口約束をしてそのことを完全に忘れていたり、自分以外の人間を取るに足らない存在と思っていたり、挙句の果てには禁じられた魔法である「人の心を変える魔法」をBANBAN使いまくる始末。
そしてその悪魔じみたチャイドルが好きだったのが6歳のときの俺である。
「こういうお姉ちゃんがいたらなー」と暇つぶしに考え出したのがことの始まりといってもよい。
ところで個人的に「すきすき暴走モード」と呼んでいるのだが、推しキャラのテーマカラーの色のものを見ると無条件に欲しくなったりしないだろうか?
かくいう俺も紫色をおんぷちゃん色と呼び親しんでいて、その時の自分のもちものを思い返してみると無条件ですべて紫色なんだよね。
今、紫色が好きなのはこの状態があったからに他ならない。
そしてそれからしばらくしてだけど、中学のときにニコニコが流行り、ハルヒらき☆すたやっさいもっさいの他に東方projectが大流行した。
俺が東方を知ったとき最新作は花映塚(文花帖かもしれない)で、風神録が次に出る新作、というときだった。
その時に存在していた東方キャラで、紫色がテーマカラーといえば……そう、パチュリー・ノーレッジである。
東方projectといえば今や知らない人がいないというほど人口に膾炙しているものだが、当時はまだ同人界隈の1ジャンルに過ぎなかった。
つまりオリジナルの味付けが推奨されていたということだ。
キャラクターとテーマ曲とおおまかな設定だけがあって、そこから話を作り出すのはそれぞれでやっていいというのが東方projectのすごいところだ。
誰でも一度くらいは、「もし自分が幻想郷に幻想入りしたら」という二次創作を行なったことがあるはずだ。
俺もやった。俺はまず紅魔館に拾われるという設定でやった。
パチュリー様はその中で「魔法の基礎を教えてくれる人」という役どころだったわけだが、これがあまりにハマり役すぎたのだ。
なんというか、パチュリー様って面倒見が良さそうな気がしないか?確か風土記とかを読むのが好きって設定あったよね?
幻想入りしたばかりで不安なのを解消してくれるのがパチュリー様だったということだ。
つまるところ萌えの自給自足を行なったというわけだ。
俺はいまだに時折パチュリー様を母親と思っていることがあり、そう思ってしまって以来もう別枠というか殿堂入りなのである。
そんなこんなで大学生になり上京するわけなのだが、俺の地元はクソ田舎なので、ゲーセンなんて近所にはなかった。
しかし東京にはゲーセンは腐るほどある。
いや腐るほどはないが、2,3駅に1件くらいはあった。
その中の1軒、当時住んでいたアパートの最寄り駅にあったゲーセンにフラフラと立ち入ったのが運の尽きだった。
そこにあったのは初音ミクProject DIVA Arcade。そこにいたのはもちろん初音ミクである。
初音ミク自体は、俺が中学生のころから存在していたし、ニコニコではもはや見かけない日がないというほどだったのは覚えている。
しかし、当初俺はボーカロイドに特段の興味がなかった。
嫌いだったわけではないが、ボーカロイドというのは作詞作曲という絶対的な土壌があってこそ楽しめるものだと思っていた。
キャラクターが可愛いからといって、何の技能もないすっとこどっこいがのんべんだらりと足を踏み入れてもどうにもならない世界だと思っていたのだ。
しかしそれは中学時代の話。
大学生になった今、そんな些末なことでどうだこうだいうほど子供ではないのだ。
というわけで俺は筐体に100円を入れた。いくつかの知っている曲を選ぶと、初音ミクが歌って踊って、俺はそれに合わせてボタンを叩く。
ボタンを叩くだけでどうしてこうも楽しいのだろうか。
ProjectDIVAは遊べば遊ぶほどポイントが溜まり、モジュールというお着換えアイテムが解禁できる。
その中にあったのがみくずきんである。
初音ミクの派生キャラクター(初音ミク本人なので、そうと呼んでいいのかは不明)の一人に目を奪われてやまなかったのだ。
みくずきんを知らない人のために説明すると、初音ミクの代名詞であるツインテールをすっぱりと切り取り、赤いずきんとフリフリのたくさんついたエプロンドレスに白タイツ、背中にはツインテールの代わりだとばかりにバカでかいおリボンを付けた衣装を着た初音ミクのことである。
ん?タイツ?今タイツといったか?違うねっ!オーバーニーソックスなんだ!!!!
タイツだと思っていたものが実はオーバーニーで、単にフリフリなのが可愛いな~と思って踊らせたら絶対領域が目に飛び込んできたわけだ。
好きにならずにいられるか?
むしろ、先に絶対領域があると知っていたならここまで好きにはならなかったはずだ。人間なによりもギャップだね(?)。
みくずきんはギャップだらけだ。
フリフリの意匠の衣装(大爆笑ポイント)にくわえ、ずきんがあるおかげで頭が大きく見えるため、子供っぽさがマシマシになる。
そしてDIVAはいわゆる動画ゲーなので、カメラが右から左からみくずきんを映すのだが、ずきんのおかげで横からでは表情が見えづらいのだ。
つまり子供っぽくありながら、表情が読めずどこかミステリアスというありえない大人っぽさまで兼ね備えているのである。
この世のかわいいをすべて集めて大鍋で煮込んだものがあるとするならば、それはずきんをかぶった初音ミクの姿をしている。
さて、俺が人生で激烈にハマったキャラクターといえば以上だ。
なわけねえだろ……伊藤カイジ……!
言うのが恥ずかしいから黙ってたが、俺は紫のほかに水色とかピンクとか、いわゆるメゾピアノカラーがバッチリ好きなのだ。
そしてそういう色がふんだんに使われたキャラクターが多いのはプリキュアシリーズだ。
中でも現役で見ていたハートキャッチ!とかスマイルとかが好きだ。
(ちょっと待てよ?6歳のときにおジャ魔女1期なんだよね?ってなるとハートキャッチのときは?)
ハートキャッチのときはガチハマりしていたため、専用の実況掲示板にも入り浸っていた。
当時使っていた携帯電話(ガラケーの時代だ)は、画面をくるっと裏返しにしてワンセグテレビとしても使用できるもので、さらには録画もできた。
容量が少なかったので複数話を残してはおけなかったが、当時としてはかなり最先端な視聴方法だったはずだ。
ところでその実況掲示板ではある言葉が合言葉のように投げかわされていた。
「えかいつ」すなわち「えりかがかわいくていきるのがつらい」という意味の言葉だ……。
これは俺も本当にそう思っていて、しきりに発していた。
水色でちっこくて元気でだらしなくて、見ていて本当に楽しかったし、逆に言えば見ていないと楽しくないということまで真になるほどだったのだ。
というわけで来海えりかも好きなキャラに挙げなくてはいけない。
羽衣ララとかソラ・ハレワタールもかなり好きだが、プリキュアで好きなのを挙げていったらきりがないためここまでにする。
話は変わるが、俺はソシャゲが苦手だ。
なぜ苦手かは言えない。説明できない。サービス開始から始めないとまともなゲームにならないからとか、永遠に完結しないストーリーを読むのが苦痛だからとかいろいろつけることはできるが、とにかく苦手だ。
しかし原作ものとなると話は変わる。
昔プレステ4を面白半分で買った時だ。面白半分というのは、特にやりたいゲームもなかったのに本体を買ってしまったということだ。
そこで俺は、これまた面白半分で閃乱カグラを買うことにした。面白半分というのは、特に情報を仕入れずパッケージだけを見て買ってしまったということだ。
それまでは名前くらいしか聞いたことがなかったが、いわゆる美少女動物園系のシリーズであることはパッケージだけで易々と判断できた。
出てくるキャラクターふむふむまぁまぁまぁね、という感じだったのだが、一人だけ輝いているヤツがいた。華風流である。
少しくすんだような金髪(こういう色好きなのだが何色というんだろう?)と、ロリキャラ枠特有のちっこさも気に入ったのだが、美少女キャラクターだから可愛いのは当然だ。何より俺にアクセスしてきたのはその声である。
井澤詩織の出すある意味一番濃いロリキャラボイスが脳に直接信号を送ってきたのだ。
昔からこういう声は好きだ。
とある科学の超電磁砲を見ていた時も、声で気に入ったのがフレンダ=セイヴェルンだった。
こちらは内田真礼によるものだ。
個人的にこういう感じの声本当に好きだからもっとこういう系の声の声優さんが増えてほしいのだが、一般的にはダミ声とか言われるらしい。
なんていうか唯一無二って感じがいいよな。
変な話だけどさ、例えば花澤香菜の声まねがうまい人って、結構いると思うんですよ。
でも井澤詩織の声まねができる人ってそもそもそんなにいない感じがしませんか?ねっ?ねっ?(確認)
フレンダは好きです。
ロングでウェーブなブロンドヘアに紺色のベレー帽みたいなも好きだし、作中ですぐ死ぬところも好きです。
原作者が「こいつはすぐ死ぬ予定だからできるだけ可愛くデザインしてくれ」とイラストレーターに頼んだとか頼まなかったとかいう逸話も好きです。
安心感がありますよね。死んでるし。
ピンク色が好きだと言ったな?
ピンク色のキャラクターで最も可愛いのはシャーロック=シェリンフォードだ。
ミルキィホームズにはかなりハマってた。
それもこれもすべてシャロが可愛かったからだ。
シャロが可愛かったおかげでシリーズが続いたし、シャロが可愛かったおかげでヴァイスシュヴァルツでもやたらミルキィのパックが多かったんだ。
おかげでサインカードを集めても集めてもまだ足りやしない。
アニメだって、今思えばさして面白いもんでもなかっただろ。設定はかなり面白そうなのにな。
超能力を持った探偵と怪盗とがしのぎを削る帝都で繰り広がる話って、聞いただけで面白そうだろ。
実際には……思ったほどではない。というか思ったような方向性ではない。
でもDVD買ってたよ。シャロが可愛かったからだ。三森すずこが出すロリ声に勝てるものはほとんどない。
以上だ。100行以上もよく書いたもんだ。
だいたいロリキャラじゃねえかとか言ったやつ、パンチするぞ!
嫌われていたいという性癖
なあ、「プリキュアに心底嫌われていたい」って性癖があることをご存じか?
おっと……勘違いされちゃ困るがイカれたマソキズムとは一線を画すのぜ。
単に悪口を言われたいとか避けられたいとか、ましてやぶん殴られたいとかってことじゃない。
プリキュアを一目でも見たことがあればわかるだろうが、プリキュアになる女の子ってのは基本的に心が美しく、そういった直接的な罵倒や軽蔑は絶対にしないのだ。
二次創作とはいえそれをさせてしまうとなれば、プリキュアそのものに対する冒涜とも言える。
しかしながらキモいおっさんをキモいと思うのは、いろいろ説はあるだろうがはっきり言えば本能的なことだ。
本能で拒否しているのに、心が美しいがゆえに「嫌ってはいけない、気味悪がってはいけない」と必死に笑顔を取り繕う姿に、我々は得も言われぬ興奮を覚えるのである。
そしてひとしきりの会話が終わった後、我々がどこか部屋を出ていった瞬間にほっと胸をなでおろして欲しいのである。
……何を言ってるかわからないし気味が悪いって?じゃあもっと文学的に説明するか?
このシチュエーションの根本的な魅力は「危うさ」、それも細く長く古く高い吊り橋を一歩一歩渡っていくような危うさにある。
一歩でも足を踏み外せば奈落のどこまで落ちていくか分からない。しかし前を見てもまだ橋は続いている。
これらは本能的な恐怖だ。高いところは本能的に怖いし、それが延々と続くとなればそこに心理的な恐怖まで加わる。
さらに、この恐怖からは逃れることができない。ある程度渡り始めてしまった以上、後戻りすらも危険を伴うからだ。
そういう絶体絶命の状況で、恐怖と戦いつつわずかながらずつ進んでいき、最後は無事に橋を渡り終えたとする。
絶望的な死の淵からの生還というカタルシスだ。そこには死から解き放たれた安息のみがある。
逆説的なことではあるが、安息の前には絶望が必要なのである。
そして我々はその絶望になりたいというわけだ……。もっとアンタッチャブルな、えげつない瘴気を放ちたいというわけだ。
どうだい、イカれたマソキズムじゃなくてイカれたサディズムだってこと、わかってくれたかい?
あるいは……好かれていることより嫌われていることの方が身近だから想像しやすいってだけだ。
立ち止まることは正解か否か
俺は時折、強烈に臭い立つ疑問に苛まれることがある。
自分で自分は普通に生活してると思っているが、どこかでなにかとんでもない思い違いをしてしまっているのではないか、という疑問だ。
職場で働いているとき、俺は仕事に対してみんなで目標に向かって頑張るものだと思っているが、本当は個人個人それぞれで頑張るべきなのではないか、とか。
資格勉強を頑張っているとき、どうすれば合格できるのかの前に、そもそもこの資格を取るべきなのかどうか、とか。
umm具体的なことに落とし込もうとすると無理が出るな。
かなり漠然とした疑問だ。
俺の中で一番しっくりくる説明をすると、小学校の1年生か2年生、あるいは幼稚園の年長さんくらいのときに取得しておくべきだったアイテムを取らないままここまで来てしまっていて、それが無いがために尋常でない状況、膠着状態に陥ってしまっているのだが、いまさらそれを取りに戻ることもできない。
……という自家撞着状態なのではないかと思ってしまっているのだ。
しかしこれは俺が特別異常なのではなく、人類には普遍的な悩みであろうと想像はつく。
人生でやり直したいことがまったくないなんていう人間は存在しないだろうし、ジジイが若者に向かってちゃんとしろとやたらに怒鳴るのはこういった悩みが普遍的であるからだ。
さて俺はこの疑問のためにたびたび不意に立ち止まることが多い。
一気に進んでしまえばいいものを、自分の行動が正しいのかどうかを判断しかねて立ち止まってしまうのだ。
いや、「正しい」という表現はここでは正しくないな……。
それが正解かどうか、ということではない。
たとえば、パジャマで人前に出るのは正しくないよな?
人前に出るなら少なくとも寝間着ではない服装で出るのが正しいだろう。
そういう意味の「正しい」である。常識的であるか否かってことだね。
こういう判断ができないとき、立ち止まってよく考えるのは正解か否か、常識的か否かっていうのが副次的な疑問だ。
ものごとを俯瞰的に観察することは、一般的には大切なことだ。
しかしそのために歩みを止めてしまうというのはどうだろう?
10歳の時の失敗に14歳で気が付き、そのために14歳の時の経験をまるっきり取りこぼすというのは有益だろうか?
これはその時々で正答が異なるから、一概にこうとは決められないことだが、俺はその選択肢を間違い続けてきている気がする。
そしてこういう些末なことをわざわざ文章にすることで、今現在積み重ねるべき経験をまるっきりスルーしてしまっているというのも新たな間違いだ。
所以
ダメなヤツほど自己弁護に走る。意識的であれ無意識的であれだ。
オレは確かに、勉強ができるわけでもないしユーモアセンスがあるわけでもなく、スポーツができるわけでもない。
でもそれがオレって人間だし……!
これがダメ人間の自己弁護である。
ダメな点をダメな点と認識しながら、それが自分の個性だからと無理やりに肯定するのだ。
普通、ダメな点があってその為に不都合があるのなら、それを直せばいい。
そうでなくとも、苦手なことで劣等感をこさえているのなら、それがどうしようもないことでもなければ少しずつでも克服していくのが当たり前だ。
しかしダメ人間はそれをしない。
ダメな自分を見つめては、自分はここがダメだなと実感し、でもそれがオレって人間だし……!となんとか誤魔化すのだ。
最初は目先の不都合の誤魔化しのためにやり始めるのだが、暗示のようなもので症状が進むと、本当に特長なのではないかと思い始めてしまう。
「挨拶ぐらいしなよ」「(オレは挨拶が苦手な人間だってのになぜ強制されなきゃいけないんだ?)」
「太りすぎだろ、痩せなよ」「(でも太ってるのがオレって人間だろ、誰が痩せるか)」
「その大学を目指すなら相当勉強しないとね」「(知った口をききやがって、オレなら行けるに決まってる!)」
自己弁護に慣れるとまず自己評価が高くなる。何をしても全肯定だからな。
次に自己評価と実際の評価との間の整合性が取れなくなる。テストで30点を取っても(でも30点なのがオレって人間だろ)と思ってさえしまえば、自分の中ではそれで100点だったってことにできる。
最後に、実際の評価を受け入れられなくなる。満点を取ったはずのテストなのに、お説教される道理はないからだ。
そんで最終的に、バカな割に頑固で話の通じない頭のおかしなヤツってことになる。
ちなみにここまで自己紹介です。そりゃ友達もいねえわけだよな……。でもそれがオレって人間だし……!
……なぜそうと分かっていて自己弁護に走るのか?自分以外からは弁護してもらえないからだ!
私の優性思想
俺くらいの年齢になると、旧友の中には結婚を済ませ子供のいる人間がいる。
それは、基本的にはおめでたいことで、文句のつけようもない。
はるか昔から脈々と続いてきた生命のらせんが、さらに新たな階段を進んでいく。
生き物である以上、子供ができる、あるいは子供が欲しいといった考えは、生きる目的といっても過言ではないことだ。
しかし俺の場合、それをひとたび自分に置き換えると、まったく説明のしようもないほどに落ち込みたくなるのだ。
これを読んでるお前に聞くが、自分の遺伝子なんぞ残したいか?
まあ、仮にあんたが残したいと思っていても別に文句はないよ。
ただ俺はそうは思わない。
だって不経済しか残らない。
今までの人生を振り返って、いい人生だったなと全く思わないんだ。
そりゃ人生の100%が嫌なことばかりだったってわけではない。良かったこともある。
だが基本的には自堕落で言い訳がましい人生だった。
多少は何かを頑張っていた時期もあるが成果が出なくて、成果が出ないのでなんでもすぐに諦めてきた。
自分がダメ人間であることを自覚しながらも、それを受け入れず言い訳をしていって今がある。
そんなゴミクズの遺伝子を持って生まれた子供がさて素晴らしい人生を送れるかというとどうだろう?
教育で何とでもなるというが、そんなもん俺にだって多少の環境はあったぜ。3歳のころから公文式に通ってたしな。
環境を与えられてなお何もしなかったのが俺だ。つまり教育でどうにもならなかったのが俺だ。
ついでに言えば勉強はダメでもこれがある!みたいな才能もまるっきりない。
それとも、俺はダメだったからお前は頑張れと懇切丁寧に子供に言って聞かせるべきか?バカ言うなよ!
子供が欲しいってのは一体どれくらい自分に自信があれば思えることなんだろうな。
与えられるものが何もないなら、繁殖は自制すべきだと思う。生まれてくる子供が気の毒だからだ。
なにがなんでも子供が欲しいってなら、俺に止めるすべはないしそれもこれも杞憂に過ぎないのだが……。
気の毒じゃないか?自分が、バカとバカが悪魔融合した結果できたバカのサラブレッドだって気づいたらさ。
負けているという安心
不躾な質問で済まないが、友人関係なんかで「さてはこいつ私のことが好きだな?私を気に入っているな?」と自覚した経験はあるだろうか。
正直に言うが、俺はほとんどない。
友達がいなかったということではないよ。でも心から必要とされていたことがないってことだ。
休日、友達何人かで集ってどこかに遊びに行くことはあったよ。でもそれに誘われたことがないのだ。
まあしっかりと思い返してみれば1回や2回はあったかもしれねえよ?
でもそれは最大値最小値みたいなもんで、平均を取る時にはいったん切り捨てるものだ。
大抵は俺から誘うか、他の連中が予定の話をしているので聞き耳を立てていた俺が混ぜて!と突入していった結果混ぜて貰うというパターンだった。
誘えば来てくれるし、混ぜてを言えば混ぜてくれる。友達関係だな?これは。
しかしこれはせいぜい「別にいてもいいけど、別にいなくてもいい」の状況だ。これを越えられないのだ。
居たら居たで文句があるわけじゃないけど、必ず居てほしいってわけでもない。
だから、来るなら来るで文句はないけど、わざわざ呼んで遊びたいってほどじゃない。
2軍ではいい成績だけど1軍には上がれないというわけだ。
そういう状況で反骨心というか、絶対に必要とされる人間になってやると奮起できるタイプの人間ならどれだけ良かっただろうか。
俺の場合は、慣れようと思った。つまり現状でハブられていないだけマシなのだから多くは望まないことにしたのだ。
これは一種の防衛機制だと思う。ある意味強いんだ。そもそもそんなに好かれないものだと思っているから、多少嫌われても別にね?と思えるからだ。
俺の場合、極端に仲のいい何人かがいたから、大抵そいつらにくっついていればどうにかなったというのも大きい。
しかしこれに慣れるとどうなるだろうか?
人と関われなくなってくるのだ。人間関係とはぶ厚いアクリル板越しにするものだと思っているから、実際に対面で握手するとなると尻ごみしてしまう。
見よう見まねで握手をしようとしても、お行儀が悪くはないだろうか、なにか不足はないだろうか、不快にさせているのではないだろうかと次から次へと不安が湧いてきてしまう。
親しい友人がいたころはよかったが、進学や就職によってそいつらを失うと、途端にどうしていいかわからなくなる。
結果として、その不安を避けるため孤立を選び、そのために後ろ指を指されながら変人扱いされる立ち位置に落ち着く。
人間は、例えば街中を歩くときにはまともな身なりでなくてはいけない。
まともな身なりというのは、それを身に着ける自分がまともでない限りは、難しいことだ。
しかし負け組という腐臭のする水槽の中では自由だ。少なくとも気にしすぎなくていい。
負けているということは安心だ。そこからの逆転負けはないから。
デモデモダッテさん
職場に一人こういうのがいると気が滅入る。
何かにつけて「えーでもさぁ」「えーでもなぁ」「えーだってさぁ~」と口走られるとその頬を打ち抜きたくなる。
俺も無能だが、こういうのは俺とかとは比にならないくらいの無能であるため、それだけ周りに与える害が大きいのだ。
こいつらには恥とか外聞とかいう概念がないため、無能であることを隠さない。
それどころか、自分は有能であると心の底から信じているようにさえ見える。
俺もパフォーマンスは悪い方なので、無能には無能なりの仕事というのがあって、それを全うすることで無能なりに貢献ができると思っている。
しかしこの手の連中は、自分を有能であると信じ込んでいるため、有能だからある程度の振る舞いは許されると思ってしまっているんだ。
俺からするとそれは信じられないので、コイツの一挙手一投足に俺はムカついている。
うまいなあと思うのは、周りの人たちはこのデモデモダッテさんをうまくおだてて適当に動かしているということだ。
よくムカつかないなと思うんだ。
まず第一にコイツは仕事ができない。
それ自体は仕方がないことだ。俺もあまり人のことは言えない程度だ。
第二に、コイツは一か所で集中して頑張ることが全くできない。
自分の仕事がままなってないのに、よその人の手伝いを買って出たりするわけだ。
うんにゃ買って出るか!買って出るっていうと「手伝いますよ!」と声をかけてから始める感じがあるな。
コイツの場合はなんも言わずシレッと始めるんだよな!
なぜコイツがそこにいるのか誰も分かってないときさえある。
「何してんの?」と聞くと「手伝ってあげてるんじゃないですか、手伝ってる人にそういう言い方はないと思いますよ」とか吹っ掛けてくるわけだ。
言っとくけどこれマジだからね。まだこいつをぶっ殺してないってのは偉いだろ?
気が付くとフラフラ立ち歩いているため、何も任せられないんだ。
ここまでで俺は死ぬほどムカついているのだが、周りの人たちは彼をフリーマンとか便利屋とか呼んでその気にさせ、なんだかんだ邪魔にならない程度の作業をさせている。
コンプライアンス上、といえばそれまでなのだが、このムカつくコイツに対してそれを発揮できないのは俺の不得手だ。
第三に、ミスはすべて人のせいにすることだ。
このような作業環境なので、彼自身の仕事は終わっていないし、任せたこともすべて半端でほったらかしてある。
そこをつつくと延々とデモデモダッテが始まるわけである。
俺はコイツにクソほどムカついているので、その手の言い訳をスルーして原因療法を試みるわけだが、すると面白いように逆ギレしてくれるのだ。
俺も俺で性格が悪いため、こういうキレやすい人間をキレさせるのは結構楽しいのだ。
いい年した大人が舌打ちしながらゴミ箱蹴ったりしてるさまより面白いことはない。
デモデモダッテさんには責任感がないため、こういった衝動の発散でいつか身を滅ぼしてくれやしないかなと希望さえ持てるからだ。
このように唾棄すべき人材なのだが、社員である以上そう簡単にやめさせることができない。
呪いの装備かなんか?
しかしこのデモデモダッテさんを見ていると少し悲しくなることもある。
彼は彼なりに自分を大きく見せようとしていると垣間見えることだ。
いい年こいていて、奇特な行動でもって注目を惹こうとするのだ。
始業ギリギリに来て自分の席に座り、ワイヤレスイヤホンで何か聞きながら目を閉じている。
始業してもそのザマは変わらない。
もはや誰も彼に注意したがらないのだが、始業していて周りは働いているのだからいつまでも音楽鑑賞していてもらうわけにはいかない。
「仕事だぞ。それ取れよ」
一番近くにいるのが俺なので、しぶしぶそう言うと、彼はこう切り返すのだ。
「えぇ~でも今ぁ~音楽聞いてモチベーション上げてるんで~」
闇金ウシジマくんでこんなのを見たことがある。
おそらく彼は、少しでも現実を見ると自分の無能さに気が付いてしまうため、自分が優秀な大物であるという世界線を妄想し続けているのかもしれない。
あるいは、既に自分は誰からも期待をかけられていないということに気が付いているが受け入れられないため、気が付いていないことにしているのかもしれない。
「あんたらから見たら、確かに俺は無能かもしれない。デモデモダッテそれが俺って人間でしょ?」
同族嫌悪か?俺も昔、そんなことを思っていたことがあるような気がする。
『IQが20違うと会話が成立しない』という言説に対して
漠然とした命題だ。
IQとはもちろん知能指数のことだが、俺はこれ自体かなり懐疑的な尺度だと思っている。
IQの高い低いといえばいわゆる「頭の作りが違う」というような先天的なものであるという印象を受けるが、テストで計る数値なので当然そのテストに対するトレーニングができてしまうのだ。
それにそのテストを受ける我々は人間だから、その日その日で調子の良し悪しがある。
たまたま頭がキレキレの日にそのテストを受けてしまえば、10や20は上乗せされた数値が出たっておかしかないだろ。
だってさ、小学校のときの体力測定でさえ調子の良し悪しで結構違う値が出たろ?
朝ご飯をたくさん食べてしまった人は長座体前屈で不利を被る。
垂直飛びが大腿筋の性能を図るというのなら、体重によって結果に差が出ることも加味してくれなきゃ困るだろ。
それらと同様に、IQというもの自体、絶対的な指標として扱うには不満足なのだ。
だからは俺はIQの高さを自慢するってのは、かなり分の悪い賭けだと思う。
人間というものは多かれ少なかれ自信があるものを自慢する。
「見て見て、俺ムーンウォークができるんだぜ!」と言ってくる奴は、じゃあムーンウォーク以外に何か見せてというと大抵は何もできない。
ムーンウォークができるということと、だからダンスがうまいというのはつながらないからだ。
同様に、高IQを自慢する人間には、IQテストの結果が良かった以外の点で何か役に立つ部分があるのかというとそうでもない。
IQが高いならば、勉強や仕事が能くできるという命題は真偽不明なのだ。
ほかに取り柄があるならばそっちを自慢しているはずなので、IQの高さが自慢な連中は大抵IQの数値以外には取り立てて何もない。
だいたい1回こっきりのテストの受けたその結果がどうだったこうだったってのをずっと覚えて物語っているっつー時点で、そいつは何かズレているとしか言いようがないよな。
まあ少なくとも低いよりは高い方がいいのだろうとは判断できるから、相対的な指標ではあるだろうし、逆に絶対性を信じ込んで自分はIQが高いからそのへんの有象無象と比べて優秀なのだという謎めいた演繹を一生信じていられるならそれは幸福なことだろう。
しかし今回俺が文句を言いたいところはそこではない。
表題の『IQが20違うと会話が成立しない』という言説をやたら取り沙汰す連中のことだ。
何かにつけてこの命題を持ち出してくる奴は、どういうわけか自分を高い側だと思っている。
俺はこれが不思議でしょうがないんだよ!
どうしてこいつらは「自分が低い側かもしれない」ということに頭が回らないんだろう。
この手の連中は自分を優秀な側にいると信じ込んでいるから、やたらに好戦的だし自分を論破王だと思っている。
俺はこの話を信じていないから、ある人と会話が成り立たなかったとすればまず自分に原因があると思う。
大抵俺がわけのわからんことを言っていて相手がポカーンあるいはドン引きというのが、会話不成立の合図になるからだ。
その逆もしかりである。
相手が言っていることをよく理解できなくて、不必要なまでに聞き返したりすることも会話が成り立っていない証拠だ。
そしてこれらは、仮にソイツのIQが優れているというのなら、適宜調節ができるはずなのだ。
相手がまだ理解していなさそうならもう少し詳しく説明して、わかっていそうならかいつまんだ説明にして、と状況に合わせられるはずなのだ。
それをしていない、あるいはできていない以上、少なくとも自分が高い側ではないと想像がつきそうなものだ。
それとも……自分の話したいことだけをガーガーまくし立てて相手が唖然としてしまったら「コイツはIQが低いバカだ」と断じるのが世の当たり前なんだろうか?
なら俺も、人並外れてIQが高いのかもしれないね。
相談強盗
人に何かを相談するのが苦手だ。
質問ならできる。それは演繹で答えが出せるからだ。
ところが相談となるとそうはいかない。
ものによっては答えの出ない問答を延々繰り返させることにもなりかねない。
そうなると、なんか強盗でもしてしまっているような気になる。
「この俺様がこんなに困っているのだから、てめえなんかいい案搾り出せよ」とでも言ってるような気になるのだ。
しかしまあ安心してほしいのは、俺でもこれがイカれた発想だってのはちゃんとわかっている。
なぜなら他人からなにか相談を受けるとき「コイツ強盗しにきやがって」とかそんな風にはまったく思わないからだ。
出来る限り親身になって、なんとかしなければとさえ思う。
相談というのは基本的に誰彼構わずするものではなく、ある程度の信頼関係があるところで行うものだ。
つまり相談を持ち掛けられるということは、その人から信頼されているということの証左でもあるということだ。
だから無下に突っぱねるということはないし、それはできない。むしろ嬉しいことですらある。
ところがそれを自分からとなると途端にできなくなるのだ。
なぜだろうな?人を信用してないのか?自己肯定感が低すぎるのか?
あるいは、人生経験が浅すぎて、相談しないとどうにもならないことってのにまだ出くわしてないのかもしれないな。
ホラー映画
全てのホラー映画はホラに過ぎない。
そりゃそうだ。おばけもゾンビも怨霊も悪霊もこの世には存在しない。
存在するのは、それらを映したホラー映画だけだ。
俺はホラー映画が嫌いだ。なぜならすべてのホラー映画は、単に装丁の豪華なドッキリ映像に過ぎないからだ。
ホラー映画にありがちな演出を例えに出そう。
まず主役の女が一人で真っ暗な廃墟を進んでいく。
すると扉に行きつく。なんやかんや理由があって、とにかくその扉を開けて中に入らなきゃいけない。
女は怖がるが、意を決して扉を開こうとする。そうするや否や、爆音と共に世にも恐ろし気なゾンビがウワーっと出てくる。
どんなタイトルかは知らんが、ホラー映画ではだいたいこんな映像が詰め込まれてるよな。
女が一人じゃなく二人いたり、出てくるのがゾンビじゃなくて虫だったりはするかもしれんがな。
二人いるなら、主役じゃない方がそれに巻き込まれて死ぬ。これもパターンだ。
確かに驚くだろう。俺も驚く。
無音から急にデカい音がして、画面いっぱいにグロテスクなものが映れば、誰だって驚くだろ。
……半角文字列の釣り動画とか、まとめサイトのドッキリgif画像まとめとどう違うっていうんだ?
あるいは、人が死ぬグロテスクな映像でもビビるよな。怖いというよりびっくりするだけだ。
ドッキリgif動画を、役者と演出で豪華にしていくとホラー映画になるというのが俺の主張である。
相撲の技に猫騙しというのがあるが、これは小兵がごくまれに奇襲でやるから戦法になるわけで、あちこちでパチパチやってたんではそのおかげがないんだ。
だいたい「猫」だぞ?猫を驚かす戦法を大真面目にやってどうするんだ。
恐ろしいジャンルといえば、ホラーのほかにミステリーやサスペンスがあるが、こちらは見ていられる。
内容があるからだ。ものによって良し悪しはあろうが、少なくとも謎解きや、端正な係り結びを見るという楽しみはある。
しかしホラーには何もない。
ホラー映画の広告が何故ダサいかわかるか?
「びっくりする」というところ以外に宣伝するところがないからだ。
同じような理由で、デスゲーム系の話も嫌いだ。
要約すると「なんやかんやあったが、主人公は生き残った」で書ききれるからだ。
「デスゲームによって人の醜い部分が~」なんてアホなことを言う連中がいるが、引きこもりでもなけりゃそんなもん否が応でも目に入ってくるだろうが。
違うかい?違うってのか?なあ?
公共の敵
酒タバコギャンブル風俗と、大人の遊びはいろいろあるがこれらはすべて公共の敵である。
あーちょっと待ってくれ、イカれた風紀委員になるつもりはないぞ?
これらの遊びは、"それらをやらない人にとっては公共の敵であるように見える"って話だ。
酒を飲まない奴からすると酒はそのままきちがい水だし、タバコを吸わない人からすると喫煙者は公害発生装置に見える。
ギャンブルをしない奴はそれに懸命な奴を笑うし、風俗に行かない者は、客も嬢も汚れた存在だと思っている。
これは道理だろうか?
道理であるなら、今の世までこれらの文化が残ってはいないと思うんだよね。
残っているということは敵でも何でもないってことじゃないか?
しかし公共の敵であると何が困るのか?というと、目の敵にしやすいってことだ。
例えば政治家に立候補してる奴が、環境や健康管理のためにタバコの生産を取りやめますとマニフェストを掲げるとする。
これに反論するのは難しい。言ってること自体は当たっているからだ。
分煙や増税、減産くらいがとりあえずの落としどころってところで、規制そのものをなしにすることができない。
な。公共の敵を切ることは"いつも正しい"んだよ。
"いつも正しい"ことは危険だ。逆説的には、それを振りかざせばとりあえずなにがしかを切り捨てることができるからだ。
そしてもっと危険なのは、なにがしかを切り捨てることが仕事になってる奴がいるってことだ。
……嘘だけどな。この世は民主主義だから。
自浄作用のない界隈
こんなサイトを運営していて言うのも難だが、ジジイしかいないコンテンツってのがある。
マジックザギャザリングのことだ。
具体名を出して申し訳ないが真実だ。マジックのコミュニティにはジジイしかいない。
まず、知っての通りマジックの歴史は深い。1993年開始だから、今年で30周年を数えるんだ。
そして日本においてはマジックは、遊戯王カードが産声を上げるまでTCG界を独擅場としていた。
遊戯王が99年、マジック日本語版が96年だから、カードゲーム=マジックザギャザリングという時代があったんだ。
それだけでマジックファン=ジジイとしてしまうのは早計だが、長い歴史がある中で古くからのファンは当然ジジイである。
20年前二十歳だった奴が今も二十歳ってことはないんだからな。
そして第二に、マジックというゲームは古参であればあるほど有利になるフォーマットが用意されている。
これは、歴史が長くなってしまったゲームとしては普通のことだ。
思い入れがあるデッキでも、スタンダード期間を過ぎたらただの紙束に早変わりってんじゃ味気ないからな。
マジックのフォーマットにはレガシー、モダン、パイオニア、スタンダードとあるが、だいたい10年区切りなんだ。
レガシーは発売以来すべてのエキスパンションが使えて、モダンは20年前から現在まで、パイオニアは10年前から現在まで、スタンダードは2年くらいで一回りする。
問題なのはこのモダンだ。モダンをやってる人ってのはいっぱいいたし、現在でもいっぱいいる。
初心者がマジックを始めたいなら、まずモダンから、という認識が割と一般的だった時代もある。
しかしこの感覚自体が10年以上前、マジックがまだかなり流行っていたときのことなのだ。
正直言って今、マジックはかなり下火だ。
その魅力は変わっていないのだが、悪く言えば古臭い。それにパックが高いし、対抗馬が多くて競争力も落ちている。
新しく出るカードは絵柄違いが複数種類あるのがもはや当たり前で、コレクション目的でも億劫になるほどだ。
何より新カードが出るスパンが短いから、相当やり込まないと何が強くて何が弱いのかすらわからないまま次の環境次の環境となってしまう。
なによりマジックなんざやってるのはジジイしかいねえからな!!
20年前に組んだデッキでも普通に戦えるのがモダンなんだよ。20年だぞ?20年前にやってた奴が今いくつだと思うよ?
……正確には18年前か15年前かもしれねえが、んなことどっちだっていい。
ところで、20年も経つと、当然新しくカードの種類はどんどん増えていくよな。
マジックは3ヶ月スパンで新弾が出るから。
もし、その新弾でモダン環境を揺るがすほど強いカードが出たらどうする?
いらつくよな!20年同じデッキで戦ってきたのに、ぽっと出の新カードに駆逐されたってんじゃ面白くないだろそりゃ。
これが問題だ。マジックのコミュニティでは新しいもの嫌悪がごく一般的なことになっているのが問題なのだ。
(こう言い切ると反発もあるだろうが、反発するってことはどっか思い当たる節があるってことだろ?)
マジックのコミュニティでは、スタンダードやアリーナのヒストリック、アルケミーなんかの話は禁忌なんだ。
古いものは良い、新しいものはダメ!と動物農場張りにイデオロギーを喧伝して回るんだ。
中にはアレルギー症状なのかと思うほど大ハシャギするジジイもいる。
なんせジジイどもには、それが流行ってもらっちゃ困るんだ!20年前に組んだデッキが紙束になってしまうから!
ああ!なんというワシのデッキ!全部フォイルで揃えたんだ!こっちはプレミアムカード、これはショーケースフレーム、これはシークレット・レアーじゃ!
何十万円とかけたし、ショップにも顔なじみになって融通してもらったレアカードもあるんじゃ!
デジタルなんぞ糞くらえじゃ!ワシの頃はみんなショップの対戦スペースで和気あいあいとやっとったもんじゃ。
ワシらの時代、マジックは禁止の出ないゲームじゃった。それがなんじゃ今のマジックは?禁止禁止禁止の連発じゃないか!
アリーナオリジナルカードには温かみがない!創出?呪文書からドラフト?なんじゃそれは!紙で再現できない操作は受け入れられん!クソでもくらえ!
おかしい話だよな。何がおかしいかって、これがマジックのコミュニティでは普遍的な理論だってことなんだ。
(ああ、お前さんのコミュニティじゃそうじゃないってんだろ?分かったから黙ってろ!)
スタンアルケミー専門と銘打たれていなければ、どこのコミュニティでも大なり小なり似たようなことを言う奴はいる。
下手するとそこでもこんな奴が湧くが、誰もそれに文句言わないんだよ。
なぜかって?文句をいう奴は荒らし扱いでジジイ共に叩きのめされ追い出されるからだ!
《Old Fogey》のフレーバーテキストで既に釘が刺されているはずなのにこのザマだ。
ここまでで、俺が"ちゃんとした"モダンプレイヤーに文句を言ってるわけじゃないってのがわかるだろ?
アルケミースレでアルケミーの話をしていたって「ワシャこんなもの受け入れられんのう」とぶっこんでくる✌"こいつら"✌の話をしてるんだ。
スタンダードの質問でもしてみるとわかる。
Q.スタンダードで白青デッキを組みたいんですが、おすすめの戦略はありますか?
A.スタンダードのことは知らんが、モダンなら龍王オジュタイと水面院のコンボが好きじゃな!ワシもデッキを持っとるぞ!このデッキの強みはのう……
マジだぜ。奴ら隙がなくてもモダンを語る。
Q.スタンダードで土地対策する方法ってなにがありますか?
A.スタンダードのことは知らんが、土地対策なら血染めの月じゃな!これを置かれると困るデッキは多いんじゃぞ!
マジだぜ。知らないのに何故答えるんだ?と思うだろうが、教えるんじゃなく思い出を語るのが目的だからだ。
Q.ここはスタンスレだし、スタンダードのことを聞いているのですが。
A.スタンダードなどゴミじゃ。環境がメチャクチャ、禁止カード連発、カードの値段も高い。やっとる人もおらん。
スタンダードなんてゴミを推してる奴は全員信者か工作員じゃ。お前は邪魔者じゃ!去れ!
マジだぜ。これが表題だ。
モダン専用スレでやってるなら文句はないが、こいつらは総合スレの方でも平気でやるんだよ!
もし今、マジックに興味を持った初心者が始めるとしたら、まずスタンダードだ。
アリーナで始めれば無料でデッキも貰えるしな。
でもそれでしばらくやってたら無料のデッキでは満足できなくなる。
もっと強いデッキ、あるいは面白いデッキ、面白いコンボ、面白いカード、そんなんが欲しくなる。
そんで少しコミュニティを覗きに行ったらジジイ共のこのモダンモダンの大津波で、よしじゃあ自分もデッキを組んでショップに通って相手を探してモダン始めるぞ!スタンなんて糞くらえ!ってなると思うかね?
誰も今更モダンなんざやらねえよ!パイオニアならまだしもさ。
はっきり言って今のマジックがもう一度復権するには、この手のジジイ共にどうにかして黙っててもらうしかないと思う。
スタンをやる初心者を追い出してるのはこの手のジジイ共だからだ。
あるいは……老い先すべてをモダンで済ませられるモダンな老人ホームがありゃいいんだがな。
追記:この文章を書いたときに盛り上がっていたスレッドはもう潰れてしまった。
大ハシャギだったジジイどもはもう死んだのかもしれない。
恋愛(独身男性編)
長い間孤独でいると、人間関係というものがまったくわからなくなるものだが、俺の場合は特に恋愛関係が分からなくなってしまっている。
女性を見ても何も思わないということではなく、思うんだけどその先がないって感じ?
可愛いな素敵だなと思うことと、だからコイツと付き合いたいとかセックスしたいとかいうのがまったくつながらないのだ。
なんというか、ウィンドウショッピングに近い感覚だろうか、最初から手に入ると思っていないから欲しがることもないみたいな状況なんですよね。
お店のショーケースに並んでいるものを見ると、これはすごく魅力的だと思うことは思うけど、だから必ずこれを手に入れたいとまでは思わないじゃないですか。
大抵は手が止まる理由が少しはあるものです。
自分では持て余すのではないかとか、自分よりもこれが似合う人がいるのではないか、とかね。あと値段とか。
そういう点がまず1つ。
ところで、異性と付き合いたいとかっていうのはいったい何を根拠に惹起されるものなんだろうか。
子供の頃、クラスに好きな子がいてその子と付き合いたいということを確かに思っていたのだが、付き合って何がしたかったのかというと今や思い出すことができない。
単純にアイテムゲット!みたいなノリだったんだろうか?相手が人なのに?
という点が2つ。
次のこの疑問は経験不足に裏打ちされたことだが、付き合っている恋人同士っていうのはいったい何をするものなんだろうか?
デート?
デートって何?何をもってお出かけとデートを区別するんだ。
一緒に出掛けたらデートなのか?それとも買い物したら?映画を見たら?
いや、わかるよ、明確な定義があるわけじゃないって。人間の生活だからな。
じゃあ一緒に出掛けるとしよう。
靴が欲しいから靴を買いに行きたいな、きみはなにか欲しいものはあるかな。靴?じゃあ一緒に買いに行こう。
買い物が意外とすぐに済んだから適当に食事をして、ああまだ時間があるから映画を見ようか。
……というのが簡単なデートだとして、俺はきっと楽しいが相手の子はどうだろうか。
学生のころならいいと思うよ!
学校の外で会うっていうだけでなんか特別感があったよね。
しかし大人になるとどうだ?
普通、一人の大人をしかも休日に動かすにはお金がいる。無給で人を動かすことはできない。
仮にその値段を時給1000円とすると、このデートが6時間だったとすると彼女の6000円分の時間を買い取っていることになる。
それについて、なんというかそれ相応の価値を会得してもらわないといけないと思うのだ。
当然「はいじゃあコレが今日の6時間分ね」と現ナマを手渡すことがどんなに失礼かというのは分かっているので、現金以外での価値を支払う必要があるわけだが、はたしてそれが自分にできているのだろうかと不安に思うわけだ。
食事と映画で6000円くらいだったから、それは俺は支払った。だからこれでオッケー!とはならないじゃないですか。
そんなに食べたくないものを3000円換算されるのはちょっとなぁ、映画だって別に見たかったわけじゃないものを2時間かけて見たというだけでなく、その直後に喫茶店で感想戦まで繰り広げなければならないとなれば、そこから得たものはもしかしたらマイナスの価値かもしれない。
そもそも俺の隣を歩かなければならないという時点でかなりのマイナスが既に入っているし、少なくともその分ははじめから挽回しなくてはならないんだ。
これは病状の申告なのだが、自分が楽しいことと相手も楽しんでいるということがイコールでつながらなくて、さりとて俺が楽しんでいるんだから相手がどう思ってようがすべてヨシ!と思い込めるほどその病状が進行してもいないんだ。
頭のどこかでは、好きな相手と一緒にいるならあばたもえくぼって奴ではないのか?と思わないでもないのだが……。
どうすりゃいいんだろうな?その都度、今楽しいかどうか聞くってかい?バカ言うなよ!
というのが3点。
結局どうしたらいいか?レンタル彼女でも頼めばいいんじゃないですかね、時給ちゃんと払えるし。
俺はそういうのは頼んだことがないし、これから頼むつもりもないけど頼む人の気持ちがよくわかる。
はっきりとお代金を支払っているため、こっちに多少の不手際があっても「今のでプラマイゼロ!今のでプラマイゼロね!」と思い込むことができるからだ。
結局、他人の気持ちがわからないのが一番の問題だってことだ。
それとも、俺は普通のことが普通にできないから、そっち側が気を遣ってくれと開き直るのが正解なのかい?
カラオケ
俺はカラオケが死ぬほど苦手である。というか歌うことそのものがすなわち苦手だ。
自分の中で鳴っている自分の声と、実際に自分の口から出ている声とで高さが違うからだ。
実際そうなのかは知らないが、とにかく違和感がある。
どうしてそれがわかるかというと、マイクのエコーや音量を下げるとその違和感を感じなくなるからだ。あるいは耳栓をしてもいい。
鳴っている空のオーケストラに合わせてまず歌おうとすると、自分の口からは想定と異なる高さの音が出る。
だいたいの人もそうだと思うが、歌いだしでつまづくのはかなりストレスだ。
そうするとにわかに実際に出ている方を声を修整することとなり、すなわち自分の中で鳴っているほうの声ではかなりの違和を感じることになってしまう。
そして歌えると思っていた曲が想定していたより歌えないということに気が付く。
うまく歌えないから途中で止めることは、1回2回ならまだしも毎回それではどっちらけってもんだ。
途中でやめるというカードは数回しか切れない。
ダメだとわかるのに、この吊り橋は渡らなければならない。
練習すればいいのだが、しかしそうするとカラオケが「練習したことを発表する会」になってしまうのだ。
普通の人が息抜きやストレス解消で行うことをストレスでもって体験することとなるわけだ。
普通の人が普通にできることを、自分は苦労しないとこなせないという苦痛は比類ないものがある。
だから俺はカラオケが苦手だ。
キーをあげたり下げたりすればよいのかもしれないが、結局俺がつまづいているのはそこなので、おのずからそういう状況なのである。
ところでキーっていったいなんなんだ?
キーを変えるってことはいわば転調ということだろうが、なぜ当然のようにみんなできるのだろうな。
どこかで講習会でもあったんだろうか?すこしは音楽的な素養を持って生まれてきたかったものだ。
めんどくさいにどう打ち勝つか
めんどくさいというのは悪魔のお題目である。
1日1時間、いや30分、いや15分であっても、毎日積み重ねればそれなりのスキルや経験を積むことができる。
しかし、そのわずか15分がめんどくさいのである。
15分くらいがなんだ?じゃあ明日30分やったって同じことだろう。
そして翌日になり30分を目の前にすると、今日明日休んで明後日1時間でも同じことだろう、とか考え出す。
明後日になるころには、もうそれをやらなきゃいけないっていうそのことそのものを忘れている。
めんどくさいという感情は全員にあまねく起こるものだが、結局ダメ人間とそうでない人間を分けるのは、その感情をどれくらい抑えられるのかということに他ならない。
めんどくさいのその厄介な点というのは、その瞬間にはダメージがないということだ。
15分ずつやっていれば終わっていたであろう宿題が終わっていないまま朝を迎えたときの焦りをご存じだろうか?
そのダメージは遅々として効いてくる。
1日30分の運動で体型を改善できるのに、それがめんどくさいのでだらしない体を維持している。
午前中から行動すれば1日で終わった用事が、朝起きるのがめんどくさかったがために二日三日とかかってしまったりする。
そしてこのめんどくささは仕事にも影響する。
学校の宿題ならいざ知らず、仕事のやるやらないはコミュニティでの評価に直結するからだ。
そして仕事というものは、能力不足で達成できなかったというのと、めんどくさいからやらなかったというのとでは天と地ほどの差があるのだ。
前者ならまだアドバイスのしようがあるのに対して、後者にはそれがない。
ちゃんとした会社なら配置換え等を依頼することもできるはずだが、自分の仕事ひとつめんどくさい奴がそんなめんどくさい申請を適宜こなせるはずがない。
いや?できっけど?やらないけどね!めんどくさいから!
そしてどうなるかというと、職場での居心地が悪くなって、逃げるように退職するしかなくなるんだ。
何もしてないのに嫌われたって?何もしてないから嫌われたんだよ!
ここで開き直れる奴ならまた話も違うんだろうがな。
貧すれば鈍する
「貧すれば鈍する」というのはことわざで、デジタル大辞泉によれば「貧乏すると、生活の苦しさのために精神の働きまで愚鈍になる。」という意味と引ける。
明鏡国語辞典によれば、貧すれば鈍するとは「貧乏をすると頭の働きがにぶくなり、さもしい心をもつようになる」という。
この命題は真である。
どんな怪しい高利貸しであっても、その日の10円に困って食うや食わずの人間はそこから金を借りてしまうことがある。
どうしてそんなあからさまな詐欺に引っかかるのかというと、貧していて、鈍しているからだ。
現代には気を紛らわす趣味はたくさんあるがそれらにはお金がかかるため、貧乏をしているときはテレビがあれば無料で見られるテレビ番組にかじりつくほかなくなる。
あるいはテレビすら持っていない人間は、最低限文化的な幸福、つまり飯を食って寝るかシコって寝るかしかなくなる。
これらは刹那的な快楽であるため、それしかないという生活を続けるとタバコの中毒者のような感覚を覚えるようになる。
「それをしているときは幸福」が逆転し「それをしていないときは不満」となるのだ。
貧乏人がどうして太っているのかというと、貧していて鈍しているからだ。
教養のないのがコンプレックスな人がどうしてそれを身に着けようとしないのかというと、それはすなわち貧していて鈍しているからである。
俺は学生の頃本当にお金に困っていて、明日の飯の釜を開くためにそれまで持っていた漫画やらゲームやらを全て中古屋に売り払ったことがある。
金がないのだから仕方がないとは思いつつも、一切の趣味が消えた部屋は本当にガランとしてしまって、そこで暮らすとなるとなんというか生活につやがなくなるのだ。
もちろんそこからはすぐにでも脱したいのだが、貧すれば鈍するにまさしくで、どうすれば脱せれるのか思い浮かばないという自家撞着に陥るのである。
思いつくのはギャンブルで勝つとか宝くじを当てるとか、一発逆転だけだ。
ところで青山は数学が得意だったのだが、数学では「ある命題が真であるなら、その対偶も真である」という法則がある。
対偶とはある命題の逆の裏、つまり前後と肯定否定がさかさになった命題のことだ。
すなわち「貧すれば鈍する」の対偶は「鈍していないなら貧ではない」になる。
もとの命題が真なので、この対偶も真だ。
昔、なにかのラジオで「売れるお笑い芸人に共通するポイント」の話を聞いたことがある。
いわく、芸人はみんな無名の貧乏人からのスタートだが、売れる芸人はみんな貧乏でも根っから明るいのだという。
明るいからほがらかだし芸に幅が出て、少し売れる。売れるとお金が入っていろいろなことにチャレンジできて、さらに売れる。
売れる芸人はこの循環のきっかけを作るのがうまく、逆に売れない奴は普段から愚痴だとか妬みだとか後ろ暗い話しかできず、売れる要素の端緒がまず無いのだと語っていた。
俺はこの話をはじめ聞いたとき、単に芸人への向き不向きの問題じゃないかと歯牙にもかけなかった。
明るければ向いていて、暗ければ向いていないだけだろうと思っていたのだ。
「貧すれば鈍する」という言葉は、言葉としては知っていたものの、その意味を深く考えることはなかった。
ごく最近になり、その意味をようやく注意深く考えることになったとき、ふとこの話を思い出し、売れた彼らは「鈍していなかったから、貧でなくなった」のではないかとにわかに了解を覚えたのである。
つまり鈍しなければ、明るいとか明るくないとかに関係なく貧を脱することができるのではないかと思ったのだ。
ま、やらねえけどね。めんどくさいから。
才能は万能なのか?
昇進するってことが分からない。
おっと、俺がそれを経験したことがないからってことじゃないぞ。子供の頃から思っていることだからな。
たとえば、現場職で働いている連中の中で頭一つ抜けた才能を持った奴が、上層部にそれを認められて管理職に昇進するとする。
……それって、自然なことか?
現場で働く才能と、人を管理する才能とが同じものとは思えない。
人よりも重いものを運ぶ才能を持つ人がいたとして、それが人に的確な指示を出す才能をも持ち合わせているという保証はどこにあるのだろう。
無論、それに際しさまざまに勉強はするだろうから、まるっきり何の役にも立たないってことはないだろう。
しかし勉強してどうにかなることであるならば、わざわざ現場から引っ張り上げる必要はないはずだ。
それとも「君は才能があるね!おめでとう!」っていう"頑張ったで賞"みたいなことなのだろうか。
それだったら、まあ多少はわかる。
人間年を取ると若いころのようにはいかなくなるから、無茶な仕事は回避しやや楽な仕事をやる担当に回って、長い間頑張ってくれたからお給料も上げるよってならわかる。
あるいは算数数学の世界のように、段階を踏まないと進んでいかない分野というなら、これもわかる。
たしざんひきざんができるようになってからじゃないと掛け算はわからんからな。
しかしてまったく違う仕事を任せるタイプの昇進はわからない。
それとも俺が屁理屈をいってるだけで、この世の仕事とはすべからく、段階を踏めばなんとかなるものなのだろうか。
じゃあなんで経営コンサルタントなんて連中が存在しているってんだ?
プロ野球の名選手が監督に"昇進"することがあるが、その中に名監督は何人いたと思うよ?
レジ打ちの早いヤツならば、すなわち社長に向いているとは到底思えないがね。
これじゃない感
コンビニで何か食べるものを買うと大抵の場合、違う。
欲しいものがないとか、品ぞろえが悪いとかいうことではなく、いくつも選択肢があるなかで自分でこれがいいと選び取ったにも関わらず、大抵の場合違うのだ。
さらに言えば、その選択肢に不満があったわけでもない。大抵の場合コンビニで買えるものはおいしい。おいしいんだが、なんかこれじゃない気がする。
今日なんか12種類の中からお弁当を選び出したというのに、これじゃなかった。いつでもそうだ。
からあげ弁当よりハンバーグ弁当の方が良かったんじゃないかと思う。かといってハンバーグを選んでいれば、そのときはおそらくからあげの方が良かったと感じるのだろう。
となると、逆にコンビニの方には正解がもともと存在しないのではないか、という気になる。
コンビニの経営者が「コンビニはただのお店ではなく、インフラだ」とのたまったのを聞いたときには思い上がりも甚だしいのではないかと思ったが、今思えば言い得て妙だ。
私たちが普通に生活する中で、インフラストラクチャーに感謝したりとかってことはほとんどない。
それどころか意識することすらない。
ハンドルをひねると蛇口から水が出るが、そのことに感謝したり、どうして出てくるのだろうと疑問に思ったりすることはほとんどない。
意識するのは、それが出なくなった時だけだ。
同様に、私たちがコンビニエンスストアというものを意識することはない。
せいぜいある位置を覚えているかいないかという程度で、夜中に開いている店がコンビニしかないという状況でも「開いててよかった」と感謝することはない。
俺がコンビニでバイトをしていた時、こちらがレジを打っていると違う会社のポイントカードを提示してきて、やんわり断ると「ここファミマじゃないの?」と答える客が日に数人はいた。
街中からそこがコンビニエンスストアと認めて入ってくるはずなのに、自分が入ったコンビニがセブンかファミマかローソンかすらも分からないまま買い物している人が相当な数いるのだ。
これをインフラと呼ばずしてなんと呼ぼう。
俺はコンビニが好きだ。
学生時代はずっとコンビニでバイトをしていた。
そこは空想と現実が入り混じった空間なのだ。
なんでも置いてあるのに、一番欲しいものだけが無い。
これは実は逆で、コンビニに置いてある時点で一番欲しいものではなくなるのだ。
ドーナツもそうだった。白たい焼きとか良いめの食パンとかフルーツサンドとかタピオカミルクティーとかマリトッツォとか、そういう類いのものはすべてそうなる。
専門店で買う時には行列を作ってでも買うのに、コンビニで見つけてもふーんとしか思わないし、買って食べてもふーんとしか思わない。
単に流行が終わったからというだけでは片づけられないものがある。
思うに、専門店でしか買えないときはそれが正解であり続けるが、コンビニで見るようになったらそれが正解ではなくなるのではないだろうか。
しかしよほど辺鄙な場所でもない限り、しばらく歩けばあるぐらいの位置にコンビニはある。
24時間開いていてインフラと呼んでいいほど生活に密着しているのに、一番欲しいものだけがそこにはない。
俺はコンビニが好きだ。
時計はずっと午前3時のままで、俺はずっと新聞の納品を片付けていたいんだ。
ソシャゲ
前にも似たようなことを書いたことがあるが、俺は美少女ソシャゲが苦手である。
とりわけプレイヤーが教師役や司令官役になり、美少女キャラクターがプレイヤーを師と仰いでくるタイプのゲームだ。
プレイヤーに無条件で好意を寄せられる、あるいは無条件で尊敬される、あるいは無条件で感謝されるetc、その手のハーレム設定が大の苦手なのだ。
この手のゲームをやっているといろいろと心苦しく、くわえて納得もいかないからだ。
まず好感度システムに嫌気が差す。
これは文字通り、そのキャラクターからプレイヤーへの好感度のことであるが、これは整合性もへったくれもない。
クエストをクリアしたら上がるっていうなら文句もないが、それは時間がかかるためどうせ好感度アイテムをぶっぱして0から最大まで一瞬で上げることになる。
おかしいよな?ホールケーキを一度に200個貰って、この人ダイスキ!ってなるだろうか。
また納得がいかないのは、全員分の好感度がそれぞれ独立していることだ。
推しキャラに好かれるのは嬉しいことだが、そうでないキャラクターに関しては、そうでもない。
しかし称号の解禁やクエストのクリアのために、別に好きでもないキャラクターを相棒に設定しなくてはならないこともある。
相棒に設定していると、システム上そのキャラクターの好感度が上がっていき、セリフが追加されたり変わったりする。
これが死ぬほど心苦しい。
俺はほかに推しのキャラクターがいるため、きみを相棒に設定しているのは単に称号を達成して石を貰うためだけだから、好感度が上がってもらっては困るんだ。
何もしていないし、何をするつもりもない。
そういう状況で好感度が最大になると、かなり苦しい心持ちになる。
そのキャラにも、俺の推しキャラにもだ。
ただのステータスの数字であっても、好感度と名づいている時点でそれはただの数字を超えた意味を持つ。
そもそも、登場キャラ全員から好かれるというのはかなり苦しいことだ。
その場にいる全員から好かれるか、全員から嫌われるかを選ぶなら、俺はかなりの率で後者を選ぶ。
現実でもそうだ。
いろいろな人と同時に話していると自分の中での話の整合性みたいなのが取れなくなってくるし、話しかけてくる率が高い人と低い人がいる場合、やはりよく話しかけてくる方の優先度が上がるため、低い人の方をほっぽって置いてしまうこともある。
ほっぽって置かれるのは、どんなに些細でもつらいことだ。
だから俺が誰かにそれをさせているとなると、自分自身も身を切られるようにつらくなる。
逆に全員から嫌われているなら、自分自身は居心地が悪いもののその苦痛はない。
俺はどっちかというとそれを優先するタイプなんだ。
あと、その手のハーレムもので一番気にくわないのは、結局ガチャで高レアの人気キャラクターが出ずっぱりになることだ。
集金の都合上しかたのないことではあるとわかってはいるが、PvPがメインシステムに入っているゲームではこの仕様がかなり強い。
俺はどちらかというと、低レア要員として用意された地味目なキャラの方が好きだ。
シナリオクエストをクリアするために強化したり装備を整えたりして思い入れができるし、その間にそのキャラの好感度も上がるならそれは納得できるからだ。
しかしそういったキャラはイベントクエストとか対人戦とかではあまり役に立たず、結局はガチャを回し、人気のあるキャラクターのSSRを狙うことになる。
そして、思い入れのあるキャラクターの数百倍みたいな攻撃力を持つ、さほど好きでもない半裸のキャラクターでメンツを固めることになる。
二次元キャラクターとはいえ、推しになるかどうかは自分にアクセスしてくる特徴があるかないかであり、服がエロいからとかケツがデカいからとかそんな単純な理由で決まるものではないんだ。
プライド
俺はプライドが非常に高いのだが、そのことに気が付いたのはごく最近になってからだ。
これについてはかつて20歳ぐらいの頃、友人から教えてもらったことがある。
いわく、俺は自分が傷つきたくないがためにへりくだったり、自分が傷つきたくないがためにわざとネガティブなことを考えたり、お前にはその傾向があるのだという。
俺はこれを新宿の居酒屋でテーブルの向こう側から聞かされた時、少し考えてから一笑に付した。
俺は確かに人に気を遣う方だが、それは俺がジェレミー・ベンサムが言うところの最大多数の最大幸福を信奉しているからであって、それによって自分が得をしたいからとかではない。
例えば10人の人間がいるとして、その中の1人が標的にされて9人から罵詈雑言を浴びせられたとする。
これによって9人はストレスの発散ができてそれぞれ1の幸福を得られるかもしれないが、標的になった1人はそれと同量か、あるいはそれを上回る量の不幸を得ることになる。
これは功利主義の観点から言うと、利が一切ない状態だ。
攻撃によって得られた9の幸福と、その攻撃によるダメージが-9の幸福になるから、足して0か、あるいは負の幸福が大きければ負の値になるかのどちらかでしかないからだ。
俺は、少なくとも俺が見ている範囲内ではこの何の利益もないおこないを防ぎたいのだ。
それは単純に周りから攻撃されているとつらいし、そのつらさが痛いほどわかるからということもある。
さすがに自分がそこまでの立場になったことはないが、きっとつらいだろ?なぜかわからないが共感できるんだ。
大講堂みたいなところにひとり突っ立っているのは苦しいことだ。
さらに、周りには仲良しと思われる2,3人ずつのグループがまんべんなく散らばっているのに、自分だけが一人であるとするならなおさらだ。
だから俺はグループで浮いてる子とか孤立している子によく話しかける。
しかしこの行為によって俺がまた別の不幸を被ることもあるのだが、それはまあ別の機会に話すことにしよう。
人間関係に功利主義を持ち込むのはいささか人聞きが良くないかもしれないが、俺は損得勘定で人付き合いをしてないってことを説明できるからこれが都合がいいんだ。
しかし……これは自分が傷つきたくないからしていることなのだろうか?
話は変わるが、俺は自尊心があまりに低いため、損をしてもあまり悔しくないタイプの人間だ。
俺が損をしたということは、それが財布をドブに突っ込んでしまったとかでない限りは、つまるところ誰かが得をしているということだからだ。
そもそも損をあまり損だと思っていないこともある。
たとえば50円引きシールが張られたお弁当を買ったが、レシートをよく見ると店員さんのミスかなんかで50円引きされてなかったってことがあるとしましょう。
それはいわゆるハンロンの剃刀みたいなことで、単に店員さんがミスっただけじゃないですか。
別に定価より高い金額を取られたわけでもありません。
そこでわざわざお店に戻って「これ!50円引きって張ってあるのに50円引きされてないんですけど!」とか言って返金を求めに行くとかいうのはしないし、したくないのです。
一見私が50円損をしているように見えるが、俯瞰で見れば定価のものを定価で買っただけで別に損しているわけではないからです。
これは、自分が傷つきたくないからだろうか。難しいが、答えはYESである。
ところで最近、「チー牛」という言葉がインターネットで一人歩きしていると言われている。
もともとは単に非モテあるあるみたいなネタイラストで、顔つきが幼いのに、その割に牛丼特盛を食べる状況のアンバランスさをネタにしたものだった。
しかしある地点からこれが逆転して、「非モテにはこういう髪型が多いよね」「非モテって小柄なのに大食いな人多いよね」から「こういう髪型なら非モテ!」「大食いなら非モテ!」に変わったのである。
こういう情報の歪曲単純化はインターネットにおいてよくあることだが、それにしてもこのネタはこすられ続けている。
理由はひとつ。
こういうレッテルをそこかしこに張っていれば「こういう髪型なら非モテ、でも俺はこういう髪型ではないから非モテではない」「大食いは非モテ、でも俺は大食いではないから非モテではない」という演繹が簡単になるからだ。
つまりネガティブな印象をまず提示して、自分はそこまでではないからまだ大丈夫と安心するのがひとつのパッケージであり、チー牛という言葉がここまでこすられている理由だ。
非モテの非モテたるゆえんはこの安心への演繹に簡単さを求めるところにあり、髪型がどうだとか、ましてや食べる量がどうだからとかそういう表層的なことで計られることではない。
ところで俺は確かにネガティブである。
それは漠然と「俺はダメだなあ」というような無意識的あるいは感傷的なものではなく、確固たる理由があってこのことだ。
詳細を書くと余白が埋まってしまうため避けるが、さまざまな理由が俺をダメだと証明しているので、俺は俺をダメ人間と思っているのだ。
これは、自分が傷つきたくないからだろうか。難しいが、答えはYESである。
結局のところ、前者も後者も単に俺が自分が傷つきたくないがためのことである。
最大多数のなんちゃらがどうだこうだとかいうのも、すべてその理由付けにすぎない。
俺が孤立している人に話しかけるのは、安心のため自分よりも劣っているヤツを見つけ出す必要があるからだろうし、ネガティブなことを考えるのだってそうだ。
たったこれだけのことに気付くまで、あの居酒屋から10年くんだりをも費やす必要があった。
声
俺の自分嫌いといえば、自分の本名さえ嫌いでインターネットでは青山もみじというおさまりのいい名前を名乗るほどである。
名前でもっともおさまりがいいのは、苗字4音名前3音の七五調である。
一方で俺の本名は苗字2音名前4音の休符入りハネリズムである。
つまるところ、非常に語呂が悪い。
破裂音が随所に組み込まれ、妙に発音のしにくい名前なのだ。
さらに俺の活舌の悪さも相まって、電話口などで名乗ってもほとんどの場合間違えられるか、聞き返される。
最近では自分でもこれをデメリットと受け取って適宜丁寧に発音しようと試みているが、それでも0にはならない。
また、あだ名にしにくい名前である。
大抵、あだ名というのは名前をもじったものだ。
アベならアベちゃん、ヤマザキならザキさんとか。
俺の名前は、名前のどこを切り取っても2文字にならないか、なっても語呂が良くないのだ。
たとえば田中という名前をタナちゃんとは呼ばないじゃないですか。2文字になってないし、なってても語呂が良くないから。
俺の名前はどこをとってもそんな感じだ。
名前でもじれないので、学生の頃は苗字にくん付けで、今は苗字にさん付けである。
さらに言うと、俺の名前はキラキラネームというほどではないが、漢字から読みを推測しにくい。
そのため初対面の人、あるいは病院の待合室、荷物の配達など字だけを知っている人から呼ばれる際には100%誤読されるのだ。
俺は小学校のときには既にこれをいちいち訂正することに飽き飽きしていて、間違った呼ばれ方をしても関係なく返事をしたりしていた。
自分の名前というものは、人間が最初に受け取るアイデンティティであるはずだが、俺はそれをうまく受け取れなかったのだ。
そういうわけで、自分の名前には愛着が無い。しかし改名の手続きというのは、単に愛着が無いからとかいう程度の理由では受理されないらしい。
この名前のために損をしているとか、公共のサービスを受けられなかったとかという実務的な被害が無いからだ。
これから苗字が変わるイベントがあるわけでもないため、既に袋小路である。
おさまりのいい名前をしている人は、それだけで憧れている。
そこでこの「青山もみじ」だ。
七五調で語呂がいいし、青い山にもみじだからかわいいし、字面も簡単な漢字とひらがなだから誤読もまったくされない。
あだ名はつけづらいがね。もみじをもみちゃんとは呼ばないし。いや、呼ぶか?
しかし最近では本名で呼ばれるより青山で呼ばれた方がしっくりくるところまで来ている。
それはさておき、俺も俺のことがらで好きな部分がひとつだけある。
それは「大きな声が出る」ということだ。
それだけのことか?という感じだが、実際大きな声が出ることはメリットだ。正確に言うと、大きい声が出ないことはデメリットなのだ。
学生の頃はそうでもないが、ひとたびアルバイトでも始めればおのずとわかる。
声が小さい人は、やる気がないと思われてしまうのだ。
俺は学生の頃飲食店でバイトをしていたことがあるのだが、飲食店の厨房というのは、ただでさえうるさいところだ。
注文システムはひっきりなしにピーだのガーだの鳴りまくっているし、なにかひとつ焼き目をつけるにしたって、バーナーを使おうがガスコンロを使おうがなんてったってうるさいものだ。
そのうるさい環境で業務上のコミュニケーションを取ろうとなんかした日には、まわりに聞こえるようにバカでかい声で怒鳴る必要がある。
逆に言えば、でかい声が出ないとコミュニケーションが取れないということなのである。
俺と同じ時期に入ったのに、俺よりも仕事ができる奴がいた。
しかしそいつは声が小さかった。一方で俺は仕事はできないが声が大きかった。
そのどちらに次の仕事を任せるか、となったときに任せられたのは俺の方だった。
理由は俺の方が声が大きかったからだ。
たとえば仕事を教える際、教わった後に返事をする声が聞こえたかどうかで評価をつけることがある。
返事をする奴としない奴がいたら、する奴の方が評価が高いのは当たり前だが、返事をしているのに声が小さくて聞こえない奴は後者として処理されてしまうのだ。
実際、俺と同じ時期に入ったそいつは返事をする奴だった。
しかし声が小さかったがために周りにその返事が通じず、アイツは返事もしないやる気がないと思われてしまったということだ。
その後俺は声がデカいからというだけの理由でバイトリーダーまで経験したほどだ。
声がデカいのは不便だが、意外とメリットもある。
まあそれはそれとして、俺は俺の声が嫌いなのだが。
趣味、あるいは熱中していること
表のニッキにも書いたことがあるが、俺は趣味が無い。
正確に言うと「あらゆる趣味が趣味のレベルまで達していない」だ。
休日に何をしているんですか?というのは雑談の端緒としておなじみの文句だが、俺は趣味が無いため、これに答えることができない。
休日にしていることと言えば、単に時間を潰しているだけなんだ。
ゲームをしているよ。でも語れるほど上手じゃない。
もちろん買い物にも行くよ、でも必要なもの以外は眺めるだけだ。
雑誌も読むけど、読んで心に残ったことというとさほどないね。
アニメを見てたこともあるけど、最近のは全然わからないな。
なにもかもがそうだ。
カードゲームも好きなんだよ。だけど対戦で強いわけでもないし、人に見せられるほどのコレクションがあるわけでもない。
落語も好きだ。寄席なんか1回しか行ったことが無いがな。ラジオだって好きだぞ。ただ車の中で漠然とかけているだけだけどな。
なんだっていいんだが、今日やってきたから音ゲーのことを話すよ。
俺はセガのmaimaiっていう音ゲーが好きで、思いついたころにゲーセンまでプレイしに行くんだ。
初めてプレイしたのは確かmaimaiGreenの頃だから、多分10年くらい前のことだ。
つまり俺はmaimaiを10年続けている。
しかし、その腕前は10年前からほとんど変化していない。
今で言うと、レベル13くらいまでならちゃんとSランクを取ったりできるのだが、13+まで行くと途端に何がなんだかわからなくて、クリアすらままならないほどだ。
つまるところ完全に頭打ちなのだが、ずーっとこの調子なんだよ。クリアできる曲は初見でクリアできるし、クリアできない曲はずーっと何が起こっているかわからないまま。
動画で予習をしていたこともあるが、音ゲーというのは基本的に高難易度になると何が起こっているのかわからない譜面だらけになるため、それらをきちんと認識するには紙に書いたり動作として振付けのように覚えたりするしかない。
仕事か?覚えたって1円にもならないことなのにな!
多少の音楽的素養があれば、そこまでしなくてもだいたいでいけるっていうことになるんだろうが、俺はそうじゃない。
むしろだいたいでいけるところまではもうだいぶ昔に到着していて、そこがもうめちゃくちゃぬかるみであるためタイヤがガッツリハマってしまっていて、どうやれば抜け出せるのか思案しているほどだ。
いやぁこれでも昔はね、上手くなりたいと思って真面目に練習していたこともあるにはあるんだが、例えばスライドが苦手だからスライド練習に適した曲で練習するとするだろ?
そしてその曲のスライドがうまくいくようになったとして、ほかの曲でも上手にできるかというとそうでもないんだよね。
結局同じ曲をやっていると次にどこにどうくるかっていうのを覚えてしまって、結果的にその曲では上達したように見えてしまうんだ。
つまり、実際に実力が上がるわけではないということだ。
なら全部の曲でそれをすればいいんじゃない?とも思うが、これはゲームであって仕事じゃないんだから、新曲が出るたびにいちいち「これはスライドとイーチが複雑だ。2と7を同時に取って、次に3と6、そこから回転するようにスライドを……」なんて分析なんかしたくない。
話は戻るが、そのぬかるみからいつまで経っても抜け出せないとなると、その場所で満足するしかなくなる。
だいたいでいける曲を延々繰り返し、達成率が0.0012%上がったとかで一喜一憂するしかなくなるんだ。
これは自分の中で、生産性が最もないパターンのゲームプレイだと思っている。
ゲームというのはうまくてもほとんどの場合何の役にも立たないが、自分なりに頑張って強い敵を倒した!という経験が積めれば十分に意味のある行いだと思うのだ。
逆に言えば、それが無いならゲームなんぞにやってる意味はない。
俺は意味のないことをしている。音ゲーを通して時間を潰しているだけだ。
最近考えたのだが、俺は音楽を聴くし音ゲーもやっているけど、根本的に音楽もゲームも好きじゃないんじゃないか、と思う。
あれだけ言ってもパチンコパチスロにハマる人が後を絶たないのは、お金が儲かることがあるからというのもさることながら「大きな音がしてピカピカ光るから」という理由がある。
人間は、大きな音がしてピカピカ光るものがあると本能的に興奮するのだ。
お祭りとかだって基本はそうだろ?
太鼓がドンドコなってて、ちょうちんみたいながいっぱい吊るされてる。
これは音ゲーも変わらない。
だいたい音ゲーの筐体というものは不必要なまでに電飾があって、スピーカーからは爆音で曲が流れる。
これによって音ゲープレイヤーは興奮するのだ。
そしてこれは俺においても、俺が人間である以上同じことだ。
何を意味するかというと、これが音ゲーである必要性も、ひいてはゲームである必要性も全くないということだ。
俺は先述の通り、自分ができる曲をひたすら繰り返すだけなので、生産性が無いゲームプレイをしている。
これがパチンコ屋でひたすらハンドル握ってるのと大して変わらないということだ。
ゲーム好きなら、例えばこのレベルの曲ならできるのだからそれの全譜面クリアとかコンプリートを目指すと思う。
音楽が好きなら、いろいろな曲に触れてみたいと思うだろうから、やはり結果的に全譜面クリアとかを目指すだろう。
俺の場合はこの両方に当てはまらない。
なぜならmaimaiが上達するまでの過程を仕事に例えているからだ。
ゲーム好き音楽好き、あるいはmaimai好きの人なら、これを詰めていくことが楽しいはずだ。
楽しいから無意識的に分析と実行を繰り返し、その結果として音ゲーがうまくなっていくわけだが、俺はそうなっていない。
これから導かれることは、俺は10年もmaimaiをやってるのに、音ゲー自体が好きではないという事実だ。
好きでやってると思っていたことが、実は好きでも何でもないただの暇つぶしだったって気づいたときの衝撃をもうちょっと教えてやろうと思ったがやめておくよ。
あんたもそうだろうが、それ以上にこっちの気が滅入っちゃったからな。
そこにいる人は、そこにいるべくしてそこにいる。
自分のことがままなっていないのに、人に構ってしまうことってないか?
俺は共感性が低く、人の気持ちがあまりわからないため過剰に気を遣いがちだ。
前にも書いたことがあるが、ある集団の中で浮いている人とかあぶれている人を見るといたたまれなくなる。
そしてそういう人がいると俺は積極的に話しかけに行っていたのだが、経験上、集団で浮いている人というのは浮くべくして浮いている。
理由として大きな点は、まずそういう連中はべらぼうにウザいっていうことだ。
大学のとき、バイト先で浮いている人がいた。
その頃の俺はかなりピュアだったため、浮いているのがかわいそうだと思い余計に挨拶したりして、なんとかしようと思っていたのだ。
そんなわけで俺と彼は休憩中に話したりするようになったわけだ。
彼が話す内容は「女はバカだ」とか「バカな女にへーこらしてる男もバカだ」とかいうインターネットに百万は転がっているヘイト的な言説だった。
そして話が終わるころに「青山は結構世の中わかってるタイプだな!」と残されたのだ。
嘘だろ……俺コイツに仲間だと思われてるのかよ、と思った。自分から乗り込んでおいてなんだけど。
話は変わるが、どんな陰気なキャラクターでも、人付き合いのリビドーは彼ら自身の中に一定数存在する。
人間が社会的な動物である以上、「自分は陰キャだから人付き合いが苦手で~」とかいくらまくしたてていても、これを否定することはできない。
浮いている人はこのリビドーを開放するチャネルが無い。
チャネルが無いから漏れ出てない、つまり人付き合いを必要としていないように見えるってだけで、そのリビドーは満タンに溜まっている。
そして、こういう人に話しかけて知り合いになってしまうと、それを100%の出力でぶちまけられる運びとなる。
社会人になって最初の会社に入ってきた後輩に、俺は毎日飲みに誘われていた。
冗談抜きで毎日だ。
彼は陰気な男で、さらに言えば仕事もまあできないタイプだったために、就職から短時間で浮いてしまった稀有な男だった。
最初の数回に付き合ってしまったため、彼の中で「青山=飲みに行ける人」という等式が成り立ってしまったのだ。
はたしてそのタンクにはチャネルが俺しかない。
「仕事が終わった→飲みに行く→青山を誘う」という流れが、俺を無視して組まれてしまった。
良い言い方をすれば、彼らは俺に気を許していると言えるかもしれないが、気を許しているならなんでもやっていいわけではない。
「今日はいいかな……俺にも都合があるからさ」と俺が言ったセリフに食い気味に「じゃあ明日は?」と続けられて本当に鬱陶しく思ったものだ。
浮いてる奴は鬱陶しい、というよりもそもそも鬱陶しいから浮くんだ。
難しいのは、本人には一切の悪気が無いことだ。
本人からすれば、何もしていないのに嫌われてしまったと思っていることだろう。
地獄の罪人は、そこに囚われるべくして囚われている。
ダンテとウェルギリウスが彼らと関わらないのは、薄情だからではない。
救い出せないからだ。
彼らを救おうとすること自体、おこがましくも神の采配を愚弄することになるからだ。
これを引用するのは適切ではないかもしれないが、浮いている人にはできるだけ近づかず、本人が地に降りてくるのを待っていた方がよい。
おや……自分はそうではないけどって言いたいような口ぶりだね?
個人崇拝
インターネットはコミュニティの草の根化を推し進めた。
コミュニティの種になるのはテレビ番組だったりアニメだったり漫画だったりのエンターテインメント作品が主である。
かいつまんで言うが、俺はこのネットのファンコミュニティがものすごく苦手なのだ。
特に個人崇拝をするタイプのコミュニティといえば、とにかく目を逸らしたくなる。
好きなゲーム漫画その他もろもろのコミュニティに入っていって、それの製作者○○さんは天才だとか言い続けるのが苦痛で仕方がないからだ。
そもそも、ある作品を見て覚える感想というのは十人十色であるべきで、友達同士とかローカルの場で話すには問題はないが、ファン全員がある認識を持っていないといけないみたいなのはおかしいと思うのだ。
知り合いでもないのにプロデューサーだのディレクターだのさん付けで呼んでいることにも、ものすごい違和感がある。
桜井政博はたしかにスマブラを作った人かもしれないが、桜井政博一人で出来上がったものではないはずだ。
それなのに「桜井政博はスマブラを作った神!」と表現するのは、どこか間違っているような気がする。
同様に、ある曲が気に入ったとして、同じ作曲家が作った曲ならすべて好きなのかというとそうでもない。
いい曲を書くというだけで、その人の人格まで全肯定しなければならない理由はないはずだ。
YMOを聞く人は全員坂本龍一と政治思想を一にしているか?そんなはずはない。
しかしながら俺はこれが羨ましくもある。いやほんとに羨ましいんだよ。
何も考えず諸手を挙げて賞賛っていうのは結構充実感がある行為だからな。
環境
なにかから逃げ出すとき、「環境が悪かった」「自分には合わなかった」という文句をよく付ける。
本当に合わない環境なら、逃げ出しても問題ないし恥じることでもない、とは昨今よく言ったものだが、それは全て言い訳に過ぎない。
環境が悪いと感じるのはほとんどの場合、その環境に身を置いている自分が悪いからだ。
例えば、自分の意見は尊重されない、という環境があったとして、ではなぜ尊重されないのかと考えてみると原因がわかる。
話し方が悪いのか?内容が悪いのか?それとも、1回主張して通らなかったからといって諦めてしまうだけなのか?
こうして洗い出してみると、おおよその場合原因は自分にある。
実際に周りの人間が悪意を持っていて……自分は悪くなくて一方的に被害者で……などというのは夢物語なのだ。
こういったことに気付かないか、気づいても改善するつもりがないから、環境が悪かったんだということにして逃げ出しているにすぎないのだ。
……こういう自己啓発的な文言は好きではなかったのだが、実際に職場で"本物の"優秀な人材を目の当たりにして、環境がどうだこうだいうのは全て言い訳に過ぎないと本当に感じたんだ。
本当なら、学生のときにこれに気付いていたかったものだ。